あなたは「毒親」という言葉を知っていますか?
一般的な範囲を超えての過干渉・育児放棄等を含む児童虐待によって、子供に「毒」となりうる影響を与える親のこと。一昔前は「厳しい親」と呼ばれていた者たちの一部もこの「毒親」である可能性が高い。
この言葉を初めて聞く人の中には「うちの親はそんなことない」とか「自分はそんな子供の育て方はしてない」と思ってる人も多い。しかし、「毒親」という概念の難しさはその自覚が持てないことにある。
そこで今回は、あえて自分の親に厳しい目でメスを入れつつ、自分の親が「毒親」である人に対し、少しでも客観的な目を持ってその辛さを解決してもらえるように解説していきたいと思う。
「毒親」とは?
冒頭の話を聞くだけでも毒親に対するおおよそのイメージは抱いてもらえると思うけど、ここではさらに深く、詳細に定義づけしていこうと思う。
毒親の特徴
- 子供に対し、過保護・過干渉である
- 子供に対し、否定的になる
- 子供を叱る時、感情的になる
- 子供に恩を着せる
- 子供の人格を尊重しない
これらに1つでも当てはまる人は毒親である可能性が非常に高いです。では、実際の例としてどんな行動を起こすのが毒親なんでしょうか?
子供に対し、過保護・過干渉である
これは子供に対して必要以上に関わろうとすることにあたります。
「あれをしてはいけない、これはダメ」
「あれはちゃんとやったの?」
「これはこうしなきゃいけない」
など、子供が何かをやってみる前に先回りして何でも決めてしまっていませんか?
本当に危険なこと、明確に他人に迷惑をかけることであれば先に教訓を与えることは大切ですが、それ以外の口出しは子供の自由な思考を削いでしまい、貴重な体験の場さえ無くすことになります。
結果、自分で何も決められない・主体性の薄い人格が板について優柔不断な子供になりがち。
子供を自分の思いだけでコントロールしようという人は、毒親です。
子供に対し、否定的になる
子供が行動を起こし、導き出した結果について「改善策」ではなく「ただのダメ出し」をしていませんか?
「そんなことして何になるの?」
「何でこんなことも分からないの」
「あなたは意地悪な子」
これらの言動は子供を過度に委縮させます。特に幼少期は親は絶対的な大人として常に自分の前にいるので、これらのことを言われ続けると「自分は嫌な子なんだ」「こういうことを言うと、また怒られるんじゃないか」と考えてしまい、人前で意見を述べること・その意見を否定されることに人一倍恐れを抱くようになります。
子供のやることに対し、自分の価値観だけで否定に入る人は、毒親です。
子供を叱る時、感情的になる
自分の虫の居所が悪いからと言って、子供の行動に目くじらを立てて強い怒り方をしていませんか?
子供が間違いを起こすことはたくさんあります。そしてそのせいで叱られるという事自体は全く悪いことではありません。しかし
「口答えするな!」
「これ以上イライラさせるな!」
「いい加減にしろ!」
といった言葉が出てきても、親の気持ちを全て理解してあげることのできない子供にとっては何故親が激昂しているのかが分かりません。子供からすると「とにかくすごく怖い怒り方をされた」というトラウマだけが残ります。
以降は怒られるのが怖くなり、親の前で何かをする・言う機会がどんどん減り、コミュニケーションがさらに減ってしまいます。
自分の感情と、子供の悪いことに対しての指導を一緒くたに考える人は、毒親です。
子供に恩を着せる
親と言うのはどこかで「自分が子供を育てている」という自負があり、それがポロッと出てしまう瞬間があります。
「誰に育ててもらっていると思ってるんだ!」
「親に対してなんだその口の利き方は!」
「お前など産まなければよかった!」
こんなことを言ったり、こういう思いを抱いたまま子供と話をしていませんか?
子供の立場としては、この言葉を出されては何も言えません。確かに親は敬うべき立場にいますが、それは子供が自発的に思うことであり、親が押し付けることではありません。どこかに潜んだ子供からのSOSを無視してのこの言動は、子供に対する「奴隷宣言」に等しいです。
親の立場を振りかざし、子供を抑えつける人は、毒親です。
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子供の人格を尊重しない
他人の部屋に入る時はノックをしたり、呼び鈴を押したりしますね。
それは家族間でも同じです。「家族なんだから」という言葉を盾に、子供のプライベートを無視していませんか?
子供も一人の人間である以上は、パーソナルスペースもあるし、一人になりたい時だってあります。他人と過ごす時のように一定の距離を置いて接する瞬間もまた必要です。
子供=自分の所有物のように考え、尊重しない人は、毒親です。
自分の母が毒親だった過去
何故僕が「毒親」という単語にピクリときたかというと、うちの母親にも若干その傾向が見られたから。……とはいうものの、今心底親を憎んでいるかというと、そんなことはなく「あーアレはヤバかったわ」という感じ
先に挙げた毒親の特徴をすべて備えた母であったことは自分、そして母と接したことのある友人も認めるところであり否定のしようがなかった。その過去について少し語ります
毒親の子は毒親になりやすい
「かえるの子はかえる」とはよく言ったもんで、家庭環境であったり幼少期の親子の接し方っていうのは子が大人になったときの振る舞いに大きく影響します。
それは言動であったり、人付き合いであったり、見える部分は様々だが大体親のコピーになり得る。それ自体社会では別段珍しいこともなく、単に「指導者(この場合は毒親)に倣って行動している」だけだ。
たとえば僕の母方の祖母は典型的な毒親で、男を作って家を一度飛び出した過去を持っている。そのことを僕に語る母だが、如何せん性格や怒りっぽさなんかの悪い部分はだいたい祖母から受け継いでいる。
しかし、当の本人はその祖母が大嫌いなわけだ。大嫌いなのに似てしまうというジレンマ……
同じジレンマが今度は僕にもやってくる。僕は幼少期~思春期にかけて非常に友達が少なかった。というか、学年でも有数の「嫌われ者」だった! それを一般論で言うと「わがままで性格の悪いやつ」で済ませて付き合いを控えればなんとでもなる。しかし我が家にはそういう人間がもう一人いるわけだ。(当時うちは母子家庭)
毒親から受けた影響1・過干渉
小中学生当時、僕は友人の行動や言動で何か引っかかることがあると、徹底的に叩いていた。「お前のそういうところがダメ」「もっと改善すべき」など、それはもう重箱の隅をつつくように細かく。
今思えば友人間で「んなことお前に言われる筋合いねーよ」な話をよくクドクドと言ってたもんだ。その粘っこいメンタルだけは褒めてやりたいくらい
しかしこの過干渉は間違いなく友人たちを遠ざける結果となった。母自身も友人はいるのだが付き合いが非常に薄かった。友人としてチョコチョコ招いていた人が、ある時期をきっかけにパッタリと訪れなくなったこともよくあった。
毒親から受けた影響2・否定的な目
友人の家に遊びに行ったりすると、作った工作を「すごいじゃん!」と親に褒められたりなんかしてるわけ。そのときの僕は正直こう思った
「入賞すらしてない粘土工作を、何故○○くんのお母さんは褒めてるんだろう?」と。
今なら当時の僕に言える。「お前、嫌~な育てられ方したな!」と。そのくせ自分も褒められた経験がないため、自分に自信があるわけでもない。
所謂「傍観者」的な立場でしか人と話すことができない。自然と粗が目立つようになってしまい、結果否定的な意見が噴出しがちになる。
僕も母に「すごい!」とか「やったね!」と褒められた記憶は全くない。その経験は計らずとも友人との付き合いで残念な結果として出てきてしまった。
毒親から受けた影響3・他人を尊重しない
当時の僕は人と話すときに迎合する術を知らなかった。
「あ、そうなんだ」とか「そういう考えもあるんだ」とか、全くない。ひたすら「何で俺の話が分からないんだこいつは!!」みたいなスタンス。ええ、周囲はドン引きよ
家庭に帰ってからの母とのやり取りは全く逆で、今度は僕が責められる番。「なんでアンタは私の話が分からないの!!」と一方的な感情論の応酬。そしてその鬱憤と論調がそのまままた友人たちに飛ぶ。悪循環という言葉がこんなに似合う状況も珍しいだろう……
毒親を通して「変わらなきゃいけない!」と思うようになったきっかけ
そういうわけで、親にもなっていない子供の頃に結構な毒っぷりを振りまき続けた僕ではあったが、ある時転機が訪れる。
「メンヘラ彼女」との出会いである。
当時から僕は幾人かの女性と付き合いはあった。嫌われ者のはずの僕がなんで……? と思われるかもしれないが「初対面の受け答えだけは良かった」からだ。つまり時間が経てばめんどくさい本性が見えるってことね。結構こういうひと、知り合いにも多かった。類は友を呼ぶっちゅーことか……
だがこのときの彼女は凄まじかった。
わがまま、過干渉、病み具合が今まで見たどんな人間よりも飛びぬけていて、自分の悪い部分がすっかり鳴りを潜めてしまったのだ。そこで僕は思った
「世の中にはスゲェやつがいる」と。悟空かおまえは
ここが大事!! きっかけとしてこれ以上のものはない
毒な家庭で育った人間は、自分の毒っぷりを客観視できない。それどころか、毒のない家庭を見ると、とにかくアウェーを感じてしまう。居心地の悪い場所も、長年経つとあたりまえになってしまい、もうそこに違和感を覚えないという最悪の「慣れ」だ。
そんな凝り固まった人間が自分を客観視できる瞬間は
「世界の広さを知ったとき」
僕の場合はメンヘラ彼女との出会いが、当たり前だった自分の価値観を壊された瞬間である。なんやかんやでその女性とはお別れをしてしまったのですが、得られたものは大きいです。本人がくれたもんじゃないけど
このとき自分の「気づき」になったポイントは・・・
- 異性との交際は友達以上家族未満の小さな社会形成
- その社会形成の体験で自分の「毒家庭」を客観視できる
- 自分以上の毒人間と過ごすことで自分に警鐘を鳴らす
ざっとこんなもんです。一言で言うと「やべ、こんな風になっちゃダメだわ」と思うこと。そのおかげで、当時僕を毛嫌いしていた人とも今となっては「あのときはホントごめんね」という感じで仲良く話せるようになり、結婚式にも出席してもらったり。ありがとう
相手も「いやー、あんときのお前、ホントに嫌いだったわーw」と遊びに来て笑い話にしてくれるので感謝。人間関係については、忘れたり、みんなが大人になってくれてたりと時間が解決してくれる部分も大きくて、そこは不幸中の幸いでした。
毒親から自分を解放する方法
毒親に対して憎んだり、複雑な感情を抱いている人は多い。
自分をそんな親から解放する方法として一番効果的なのは「自分を変えること」だ。残念ながら、自分がある程度自分の人生を歩めるようになった(=成人した)時点で親はかなりの年齢まで届いている。そんな親がこれから変わるというのはあまりにも期待が薄い。年齢を経るというのはそれほど不可逆な変化が訪れやすいのだ
そこで、自分を解放する方法=自分を変えるというスタンスで解説する。
人の意見をたくさん聞く
まずは全て自分でやろうと思わないこと。自分のことって自分では気づきにくい。白髪が生えてることだって、自分より他人のほうが気づきやすいもんだ。
だからこそ、一にも二にも「人の話を聞く」こと。そしてできるだけ多くの人に意見を求める。
人から見て「君は話を聞かない人だね」と大多数に言われてしまえば「違うんだ、俺はそういう人間じゃない! 事情があるんだ!」と言い張っても評価は変わらない。世界は自分と他人でできていて、その圧倒的多数である他人がそういう評価を下せばその通りであり、抗う自分は独りよがりでしかない。そして、そんな自分に気づけないことこそ最大の障害なのだ。
誰しも経験あると思うけど、自分の声を録音して聞いてみると「なんじゃこりゃ! こんなの俺の声じゃない!」と思うけど、他人から聞くと間違いなく君の声なんだ。それだけ人は素の自分を客観視できない
それができるようになるには、多くの意見を聞いて統計をとらなきゃいけない。まずこれが自分を「外」から変える方法
続いて自分を「中」から変える方法は「自分を他人にさらけ出す」こと。
今僕はこうやって自分の嫌われ者の過去や嫌な性格を語っている。でも不思議と嫌な気持ちはしない。それはキリスト教でいう「懺悔」の行いに近いのかもしれない
自分の思いや悩みを告白するのって、言う前は恥ずかしいけど言ってしまえばとても気持ち良い、スッキリすること。古の人間も、そうやって心に「救い」を求めてきたんだなぁと感心
最初の一歩はこの二つ。
これができれば「親子」という強固な結びつきから引き継がれた毒も、少しずつ薄まってくるはず!
「人生をつまらなくしてるのは、お前自身だ」
誰の言葉か、受け売りかは知らないけれど、ふとネットでこんな言葉を見つけた。この言葉は今でも自分の心に深く刻まれている。毒親から解放されたいのなら、色んな人に会い、その人の良いところを吸収し、毒親と違う人生を歩むこと。
毒親も「一人の弱い人間」と考える
同属嫌悪と言うべきか、昔僕にとって親は全てであり、同じく対抗心を抱く相手だった。
だから言うことにいちいち突っかかってみたり、些細な行動に苛立ってみたり、傍から見たら似たもの同士が小競り合いをしているようにしか見えなかったことだろう。
うちの親は友人が少なかった。
家に招いた友人の付き合いも、数ヶ月から数年するとパッタリ止んでしまう。ひどいときはその場で罵り合いをしていたりなんかも
そして今社会に出て思うことは「うちの親は狭いコミュニティーで動いていたんだな」ってこと。これは見下しているわけでも、バカにしているわけでもなく、自然とそう見えてしまった。今まで自分の中で「絶対」だった親という像が崩れた瞬間、僕は喜びとも悲しみとも取れない不思議な気持ちに包まれた。
毒親も好きで毒親になったわけじゃない
親という人間を他人目線で見たとき、初めてそんな風に冷静に考えることができるようになった。
「親子」というフィルターを取れば相手も一人の弱い人間で、自分も同じ。そこに序列は存在せずに、あるのは個と個だけ。「悟りを開く」というほど大それたもんじゃないけど、その気持ちに至ればずいぶんと生きやすい人生になると思う。
親は親、自分は自分。
聞けば当たり前のことだけれど、幼少の頃から引き継いだ毒はなかなかそのことに気づかせてくれない。
アメリカの精神医学者、スーザン・フォワードはその著書『毒になる親(原題はToxic Parents)』で「子は毒親を許す必要はない」と言っている。僕もそのとおりだと思う
というか、許す状況なんて作っただけで考えを改めるくらいなら最初から毒親になんてなってないもんね。毒親を中心に思考を巡らすことなどせず、「許す・許さない」といった価値観は記憶の彼方に捨て去ってしまえばいい。
あなたの目指すべき人生の終着点は「毒親に自分を認めさせる」などという小さなことではなく、「毒親との生活」という経験を通して得た教訓をもとに、さらに大きな人間へと成長して幸せをつかむことだ。
まとめ
「毒親」という概念は思った以上に複雑で、誰もがそうなりうる立場にあることは分かってもらえたと思う。
そんな毒親に対する考え方として大切なのが
- 自分の毒を親のせい「だけ」にしない・・・自分が毒を持つことは毒親に負けた証
- 毒親を一人の人間として観察する・・・自分も親も弱い人間である
- 毒親に固執しない・・・大人になれば付き合いは増える。親を憎んだり固執したりするのは自ら世界を狭めている。無理に許そうとする必要もない
子供側としては、なまじ育てられた恩を感じてしまうだけにタチの悪いこともあるが「それはそれ、これはこれ」という考え方に転換しよう。子供に関するすべての権利を「育ててきた」というだけで決める親なんて、それこそ下の下以下の人間だ。
そして、毒親から自分を解放するた間に必要な「自分の変わり方」は
- 人の話をよく聞く・・・意見を求め、考え、受け入れる
- 自分をさらけ出す・・・誤解を恐れずに、自分の弱点を話す、心を開く
- 他人を味方に・・・毒親一人より、10人の他人のほうが強い!
どうかこの記事を読んで、少しでも毒親に悩まされ続けてきた自分を解放できる人が現れると嬉しいなと思います。
そんな話です。
エンド